中村哲さんの意志を受け継ぎ
ペシャワール会を応援しましょう

中村哲さんの意志を受け継ぎ
ペシャワール会を応援しましょう

一隅を照らす Brighten the World in Your Corner

今いる場所で
希望の灯をともす

2019年12月4日、アフガニスタンで凶弾に倒れた福岡市出身の中村哲医師(享年73)。
国際NGO「ペシャワール会」現地代表として、荒廃したアフガニスタンとパキスタンで市民とともに人道・復興支援に尽くした中村さんが、
好んで使ったのが「一隅を照らす」という言葉でした。
<今いる場所で希望の灯をともす>
その意志を継ぎ、自分なりの一歩を踏み出すために、
西日本新聞は中村さんの生き方と勇気に学ぶウェブサイトを開設しました。
訪れた方々にとって、自分に何ができるか、自分はどう生きるかを考える
きっかけになれば幸いです。

「誰もがそこへ行かぬから、我々がゆく。
誰もしないから、我々がする」

Career

1973

九州大医学部を卒業

終戦翌年に福岡市で生まれる。伯父は芥川賞作家、火野葦平。祖父は、火野の小説「花と龍」のモデルとして知られ、北九州で石炭荷役業を営んだ玉井金五郎。福岡市の西南学院中、福岡高に進み、九州大医学部を卒業後、佐賀県の国立肥前療養所(現・国立病院機構肥前精神医療センター)に勤務。福岡県内の病院にも勤める。このとき、アフガニスタン、パキスタンの国境にまたがる山の登山隊に参加したことが、両国に愛着を抱くきっかけとなった。

1984

パキスタン北西部に赴任

キリスト教団体の派遣医として、パキスタン北西部ペシャワルの病院に赴任。ハンセン病患者の診療に当たる。前年には中村哲医師を支援する非政府組織「ペシャワール会」も発足。当初は医療器具と言えば「押せば倒れるトロリー車が一台、ねじれたピンセット数本、耳にはめると怪我をする聴診器が一本」。患者も自分で背負って搬送した。

1991

アフガニスタンに診療所を開設

ペシャワルの病院に訪れる患者の半数は、戦乱を逃れてきた隣国アフガニスタンの難民だった。アフガニスタン山間部の無医地区の苦境を知り、国境の峠を越えて診療所を開設。その後も活動地域を広げ、最も多い時期は両国の11カ所で診療所を運営した。

2000

干ばつを受け井戸を掘る

アフガニスタンで大干ばつが発生。農地の砂漠化が進み、住民たちが次々と村を捨てた。飢えと渇きの犠牲者の多くは子どもたち。「もはや病の治療どころではない」。かんがい事業を決意し、井戸掘りを始める。2006年までに井戸は1600カ所となった。

2001

「自衛隊派遣は有害無益」

2001年9月11日の米中枢同時テロの犯人をかくまったとして、米軍などがアフガニスタンを攻撃。自衛隊による後方支援を可能とする特別措置法案が国会で審議された。中村哲医師は参考人として特別委員会に出席。「自衛隊派遣は有害無益」と強調し、必要なのは飢餓対策だと訴えた。議員からはヤジを浴び、発言の取り消しを求められた。

2003

用水路建設に着手

井戸掘りを進める中で直面したのが、地下水の枯渇。水不足で小麦が作れない住民たちは現金収入を得るため、乾燥に強く、ヘロインやアヘンの原料となるケシの栽培を広げていた。「農村の回復なくしてアフガニスタンの再生なし」。地下水に頼るかんがいの限界を知り、用水路の建設を始めた。

2010

マルワリード用水路完成

真珠を意味する「マルワリード」と名付けられた用水路が完成。荒れ果てた農地に加え、元々砂漠だった場所までもが緑に生まれ変わった。住民の心のよりどころとなるモスク(イスラム教礼拝所)とマドラサ(イスラム神学校)も建設した。マルワリード用水路以外にも、住民の求めに応じて各地で取水口などの整備を続ける。

2019

アフガニスタン名誉市民に

アフガニスタン政府から名誉市民権を授与される。造り続けてきた用水路で潤った土地は、約1万6500㌶。福岡市の約半分に及ぶ広さとなった。日本全国からペシャワール会に寄せられた浄財、共に汗を流したアフガニスタンと日本両国のスタッフが事業を支えた。

2019

12月4日 凶弾に倒れる

作業現場へ車で向かう途中に銃撃され、死亡。享年73。中村医師の信頼が厚かった運転手ザイヌッラ・モーサムさん(34)や護衛も亡くなった。

2008-2014

ガンベリ砂漠

中村先生が実践してきた事業は全て継続し、
彼が望んだ希望は全て引き継ぐ。

ペシャワール会会長 村上優氏 追悼の辞より抜粋

press reports 会見リポート

book 中村哲医師 座右の書

青空文庫 後世への最大遺物

著者 内村鑑三

誰もしたがらないことをする
誰も行きたがらないところに行く