【アフガンの地で 中村哲医師の報告】 ※西日本新聞への寄稿記事です。

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】花を愛し、詩を吟ずる

 アフガニスタン東部のガンベリ砂漠は今、平和な静寂が支配している。かつて荒涼たる水無し地獄だった原野は、深い森が覆い、遠くで人里の音-子供たちが群れ、牛が鳴き、羊飼いたちの声が、樹々(きぎ)を渡る風の音や鳥のさえずりに和して聞こえる。

 この一角に我々(われわれ)の広大な農場があり、今も開拓が進められている。その中心地に1万2千坪(約4万平方メートル)ほどの記念公園があり、四季の花が咲き乱れ、人々に憩いの場を提供する。

 「ここは無人の砂漠だった」。ふとよみがえる過去の惨状を思うと、この平和な光景が夢のようだ。

 ●農民たちの死闘

 2003年に開始された用水路の建設は、09年の夏、ここガンベリ砂漠で最後の難関に差し掛かっていた。用水路の着工から7年目、乾いた熱風と強烈な陽光、過酷な自然環境の中で約400人の作業員が難工事に挑み、泥まみれで働いた。砂漠の気温は昼近くになると摂氏50度を超える。乾いた熱風で木の葉がドライフラワーのように乾燥することもある。熱中症が続出したが、手を休める者は居なかった。

 作業員は全て近隣の農民で元難民、干ばつで農地を失い、故郷を離れていた者たちである。2000年の大干ばつは凄(すさ)まじく、多くの村落が短期間のうちに壊滅して餓死者が相次ぎ、多くの村が放棄された。その日の食にも窮していた彼らは、水が来るという噂(うわさ)を聞いて希望を持ち、故郷に戻った者が多かった。

 彼らの願いはただ二つ、1日3回の食事が摂(と)れること、家族一緒に故郷で暮らせること、それだけだ。用水路が開通すれば、その願いが叶(かな)えられる。だが成功しなければ、再び食うや食わずの難民生活に戻らねばならない。用水路の成否は、彼らの死活問題であった。

 09年8月の通水試験が成功裏に終わったとき、作業に従事した住民は狂喜した。その日の糧を得るために、もう卑屈になったり、物乞いしたりせずともよい。餓死の恐怖が去り、神と良心の前に胸を張って生活できる。その自由をかみしめたのだ。人々の生き伸びようとする健全な意欲こそが、用水路を成功に導いた力の一つであった。「これで生きられる!」という叫びこそが、立場を超えて、生を実感して得られる人間の輝きだと今も思っている。

 その後は、人々の祈りが裏切られることはなかった。荒地は次第に緑の沃野(よくや)で覆われ、隣接地帯に建設された八つの新たな取水堰(しゅすいぜき)と水路によって安定灌漑(かんがい)地が拡大した。19年現在、総面積1万6500ヘクタール、65万人が暮らせる農地が回復した。この苦闘を心に留めるべく、「ガンベリ記念公園」が開かれたのである。

 ●文化を測る指標

 アフガン人は花を愛し、詩を愛する。記念公園の美しい花園は今、全国各地から訪問者が絶えない。バラ、ジャスミン、ザクロ、多種多様の花は、特別な専門家が準備したのではなく、全て我々PMS(平和医療団・日本)の職員と作業員が持ち寄って植えたものだ。この公園を約3万本のオレンジの園が取り囲み、早春、一面の白い花が辺りを香りで満たす。

 アフガニスタンでは伝統的な詩会が健在で、季節の花をテーマに詩人たちが集い、即興詩を吟ずる。南部ではカンダハルのザクロ、東部ではジャララバードのオレンジが有名だ。詩人は昔からどこにでも居て、無名の農民から王侯貴族まで、身分、国籍を問わず集まってくる。完全に口承文学で、読み書きのできぬ有名詩人までいるのだ。無学な作業員でも2人以上集まれば、即興詩で楽しみ合う光景は珍しくない。

 大干ばつの影響でアフガン東部の柑橘(かんきつ)類が全滅に近い打撃を受け、恒例のオレンジ詩会も途絶えがちになっていたが、ガンベリ公園のオレンジの香りを嗅(か)ぐ者は、詩会がガンベリで本格的に復活することを夢見ている。PMSが手掛ける「緑の大地計画」は単に農業の回復ではなく、伝統文化をも支えるものだ。

 我々はつい教育の重要性を説くあまり、地域に根差す豊かな文化を忘れがちだ。経済的な貧困は必ずしも精神の貧困ではない。識字率や就学率は必ずしも文化的な高さの指標ではない。「これで生きられる」という、あの安堵(あんど)の叫びの中に、自信と誇りが込められていたと思えてならない。

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 「アフガンの地で」は、アフガニスタンで復興支援活動を続ける「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表でPMS総院長の中村哲医師(72)によるリポートです。次回は12月掲載予定。


=2019/09/02付 西日本新聞朝刊=

中村先生が実践してきた事業は全て継続し、
彼が望んだ希望は全て引き継ぐ。

ペシャワール会会長 村上優氏 追悼の辞より抜粋