【アフガンの地で 中村哲医師の報告】 ※西日本新聞への寄稿記事です。

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】生活と生命奪う大干ばつ

 2018年春も、アフガニスタン東部は暖冬に加えて少雨が続いた。既に3年目である。人々は不安気に高山の白雪を仰ぎ始めた。大地の乾燥化が加速度を増していた。4月、ユニセフ(国連児童基金)、WFP(国連世界食糧計画)などの国連機関が一斉に注意を呼びかけ、飢餓線上100万人以上、数十年に一度の大干ばつだと警告した。実際にはかなり前から「飢餓人口760万人」(WFP・2014年)とされ、飢餓が慢性化していた。そこに3年連続の異常少雨が重なり、状況が一段と厳しさを増したのである。

●村を捨てて難民化

 夏が過ぎても雨は殆(ほとん)ど降らず、被害は増え続けた。今年6月、OCHA(国連人道問題調整事務所)は、餓死線上330万人、飢餓線上830万人と、深刻な実情を訴えた。この頃までに渇水は全国に及び、アフガニスタン34州中20州に食糧危機警報が発せられた。

 最大の被災は大河川のない南部と西部である。6月から7月にかけて記録的な熱波が襲い、西部のヘラート周辺、南部のヘルマンド州、ファリャ州、ニムローズ州などの各地で井戸が涸渇(こかつ)、住民が村を捨てて難民化し始めた。9月、その数26万人と英国のBBC放送が報じたが、氷山の一角だ。何倍もの予備軍が農村にとどまっている。

 南部全体の水源を成すヘルマンド川の水量が激減し、カンダハルでは伝統的な地下水路「カレーズ」も影響が伝えられ始めた。10月、反政府武装勢力のタリバン指導部が異例の布告を出し、難民の救済を訴えた。緊急食糧配給も焼け石に水というのが実情である。

●報道の死角の災害

 我々(われわれ)PMS(平和医療団・日本)が活動する東部ナンガラハル州では、既に進んでいた土地の乾燥化が加速し、パキスタンとの国境を走るスピンガル山脈一帯の村落は大半が土漠と化した。それでも、7千メートル級のヒンズークシ山脈を源流とするクナール河は安泰だと見られていた。しかし、昨冬から河の水量の異常が記録され、高山の融雪に異変が推測された。前後して上流、ヌーリスタン州で湧水が涸(か)れ始め、飢饉(ききん)の発生が伝えられた。

 普段ならパキスタンに逃れる難民が多いが、パキスタンもゆとりがなく、アフガン難民の強制送還さえ進められている。もう他に行く場所がないのだ。東部最大の人口を擁するナンガラハル州では、大河川沿いの一部を除いて農地がことごとく砂漠化し、不安は恐怖に変わりつつある。

 それでも干ばつはニュースの死角である。地震や戦災のような劇的な場面がなく、人口移動が緩慢に起きるからだ。被災者はすぐには村を空けず、出稼ぎで飢饉を凌(しの)ごうと努める。栄養失調を背景とする病死が増えても、餓死という病名はない。数年単位の動きは、事件として報道されにくい。北米の大農場の干ばつとは意味が違う。食糧という商品ではなく、生活と生命が失われるのである。

●人と自然との和解

 2000年の大干ばつを受けてPMSは03年から「緑の大地計画」を実施している。9カ所の取水堰(しゅすいぜき)と計数十キロの水路を建設、60万人の生活を保障したが、この地域は3年前から人口の異常な集中が起きていた。十分ではなくとも、なにがしかの収入が得られるからで州内外の被災地から人々が殺到、地域の人口は100万人を超えるとみられている。

 現在、取水堰の普及計画を急ピッチで進めているが、東部に関する限り、大河川の水量はそれほど減ってはいない。乾燥に強い作付けとともに、隣国に大きな影響を与えない規模で安定灌漑(かんがい)地を広げ、農業生産回復を図るべきだ。全土が恩恵に浴さずとも、難民を減らし、食糧価格高騰の抑制となるからだ。

 我々人間は地獄の淵に立っているのか、終末的なアフガンの現状が世界に及ぶかは、その時になってみないと分からない。だが、たとい温暖化の議論に極端な推論があっても、それを否定して、この現実を放置するのが正しいとは思えない。世界的な動きは、単に気温だけではない。化石燃料を基礎にしてきた近代的生産を問い直し、持続可能な安定社会と自然環境の回復を求める建設的なものだ。また、それ以外に未来を描き得ないほどに、切迫した事態が伝えられている。

 ひとごとではない。PMSが現地で「戦よりも食糧自給」を掲げ、「人と人、人と自然の和解」を説く根拠もここにある。

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 「アフガンの地で」は、アフガニスタンで復興支援活動を続ける「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表で、PMS総院長の中村哲医師(72)によるリポートです。次回は来年3月掲載予定。

=2018/12/03付 西日本新聞朝刊=

中村先生が実践してきた事業は全て継続し、
彼が望んだ希望は全て引き継ぐ。

ペシャワール会会長 村上優氏 追悼の辞より抜粋