【アフガンの地で 中村哲医師の報告】 ※西日本新聞への寄稿記事です。

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】10年越し緑の大地へ

 2012年12月初旬、われわれはこれまでになく緊張していた。クナール川沿いで朝から濃霧が立ち込め、数メートル先も見えない。ミルク色の闇の中で、轟々(ごうごう)たる河の流れと作業員たちのシャベルの音が聞こえ、ダンプカーのライトが唐突に視界に入る。

 作業はのるかそるかの局面に入っていた。一日の作業の遅れが致命的な結果になるかもしれない。カシコート=マルワリード連続堰(ぜき)は、平和医療団日本(PMS)の掲げる「緑の大地計画」の頂点ともいうべき工事である。過去10年の切磋琢磨(せっさたくま)は、このために準備されたと言っても誇張ではなかった。だが人身事故が起きれば…。「作業中止!」という言葉が喉元から出かかった瞬間、霧の中から出てきた作業員が「晴れます」と、断ずるように述べた。

 待つこと1時間、果たして川面が見え始め、ベールをはぐように山々が現れ、澄み切った青空となった。天佑(てんゆう)だ。予定通り決行である。

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 PMSは03年に「緑の大地計画」を打ち出し、ジャララバード北部3郡の穀倉地帯の復興を夢見てきた。マルワリード用水路25キロの建設を皮切りに、機能しなくなった取水堰を次々に再生。同地域の村々が安定灌漑(かんがい)に浴した。耕地面積約1万6千ヘクタールの沃野(よくや)の復活、65万農民の生活空間の確保が現実になろうとしている。

 計画の中で、マルワリード用水路対岸のカシコート(約2500ヘクタール)が最も困難な地域だと見なされていた。陸の孤島で、パキスタン領と連続し、モハマンド部族8万家族が居住、事実上完結した独立地帯である。輸送は延々20キロ下流の橋からの悪路に頼る。水利工事をめぐって、しばしばわれわれとも衝突を繰り返してきた。

 わがマルワリード用水路の取水堰は、この地域の協力がなければ、保全が難しい。唯一かつ最善の方法が、堰を共有し、カシコートをも安定灌漑で潤すことであった。それに、このような最貧困地帯こそ、最も重視すべき場所であった。

最貧困地 敵味方超え

 2010年8月の大洪水は、カシコートにも致命的な打撃を与え、多数の犠牲者を出した。農地の荒廃がさらに進み、半数がパキスタン側に難民化した。翌11年10月、同地の自治会が救援を懇請した。めぼしい国際団体は軒並み引き揚げ、PMS以外に実働する団体は消えていた。窮状を知るわれわれは快く和解し、復興を約した。

 こうして計画が始まった。クナール川を横断する連続堰(ぜき)は全長500メートル以上、成功すれば両岸の広大な耕地の復活を約束する。だが、これらは人間同士の話であって、自然が許すか否かは別問題だ。失敗すれば、既設のマルワリード用水路流域は再び砂漠化し、15万人が路頭に迷う。

 調査を進めるにつれ、インダス川支流の濁流を制するのは容易でないことを知った。用水路を通す場所が川底に消え、堰を渡す中州が流失していた。1年をかけて河道変更、2キロの護岸、交通路敷設などの準備工事を行い、秋を待った。川の水位が思いきり下がる11月から翌1月まででないと、まともな堰の工事ができないからだ。

 12年10月から、PMSはこれまで培ってきた技術と物量の総力を結集し、突貫工事態勢に入った。冬のモンスーン到来を12月中旬と予想、それまでに何とかめどをつけねばならない。遅くなれば長雨と濃霧で事故が増え、早く始めると十分な低水位対策ができない。

 ダメ押しのように、対岸では武装勢力が出没して軍を襲撃、工事現場から眺められるほど近くで戦闘が繰り返される。一方、堰の成否は両岸住民の死命を制する。カシコート自治会は対岸の両戦闘員たちに圧力をかけ、「現場に砲弾を飛ばす者は、誤射であろうと8万家族を敵にする」と宣言、射手が厳重注意を受けた。行政側も積極的に動き、異例の現場激励が頻繁に行われた。もう敵も味方もなかった。誰もが立場を超えて声援を送る-およそこのような中での工事であった。

 取水堰が用水路の心臓部で、誤れば致命的だ。低すぎれば冬の取水ができず、高すぎれば夏の洪水が流れ込む。測量を繰り返し、石張り堰が完成したのは、小雨が断続的に降り始めた12月初旬のことであった。

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 12月6日、皆が固唾(かたず)をのんで見守る中、遮水壁が切り落とされ、大河を横切る連続堰が全貌を現した。皆、その美しさに見とれ、作業の手を休めた。

 堰長505メートル、総石張りでその面積は1万5千平方メートル、九州の山田堰(福岡県朝倉市)の技術を取り込んだ堂々たるものである。透明な清流が滑るように石堰の表面を洗ってゆく。対岸の500メートル先には、9年前に建設されたマルワリード取水口がくっきりと見える。10年目にして両岸の堰が手をつなぎ、安定灌漑(かんがい)の恩恵が約束された瞬間であった。

 難民化していた村民たちは続々と帰農していた。皆、成功を信じたのだ。「ここはどこよりも平和だ」という声が口々に聞かれた。工事はなおも中途だが、山は越えた。襲ってくる安堵(あんど)感で倒れそうだったが、これが確かな希望だ。そう思った。

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 「アフガンの地で」はアフガニスタンやパキスタンで復興支援活動を続ける非政府組織「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表で「平和医療団日本」(PMS)総院長の中村哲医師(66)によるリポートです。随時掲載。


=2013/2/18付 西日本新聞朝刊=

中村先生が実践してきた事業は全て継続し、
彼が望んだ希望は全て引き継ぐ。

ペシャワール会会長 村上優氏 追悼の辞より抜粋