【アフガンの地で 中村哲医師の報告】 ※西日本新聞への寄稿記事です。

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】筑後川の知恵結ぶ

 2012年4月21日、東部アフガンの一角、ベスード郡で、不安げに集まった住民たちの間に大きな歓声が上がった。小躍りして叫びだす者もいる。「平和医療団・日本」(PMS)がカブール川に新設した取水口は、すれすれまで濁流が迫ったものの、見事にこれをかわしたからだ。冬の豪雪が急激に解け、前夜から記録的な洪水である。工事がなければ、用水路流域に浸水し、大災害を起こしただろう。水が引いた後、堰(せき)を調べたが、ほとんど影響を受けていなかった。「洪水にも渇水にも耐える取水口!」、われわれは9年越しの悲願を確認した。これによって約二千数百ヘクタールの農村地帯が、渇水と洪水の両者から解放された。

 前後して同郡・湿地帯の護岸3・5キロが完成し、カマ郡では既に二つの取水口と主幹水路が建設され、ほぼ全郡を潤していた。一方、PMSマルワリード用水路沿いでは農民たちが協力して、さらに開墾が進んでいた。対岸のカシコートでは、住民一体で用水路の基礎工事が始まったばかりだった。まぎれもなく、PMS=ペシャワール会の活動は、広大な地域に及び、過去最大規模に達しようとしていた。

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 東部の中心地・ジャララバード北部の3郡、クズクナール、カマ、ベスードはアフガン屈指の穀倉地帯である。その耕地面積は計1万6500ヘクタール、六十数万の農民が自活し、九州の筑後平野に匹敵する。戦火に抗して進められてきた水利事業は、徐々にこの全域に及び、確実に実を結ぼうとしていた。03年にPMSの「緑の大地計画」が始まったとき、荒漠たる廃村のかなたに、誰がこの豊かな光景を想像しただろうか。苦楽を共にしてきた職員・作業員600名は、全て地元出身者である。戦局や政治がどうなろうと、国際団体が消えようと、大地に張りついて生きねばならない。大詰めを迎えた計画に胸をふくらまし、士気は一挙に高まった。

 この意外な成功のカギは、実は日本の先人たちの手になる取水技術にあった。現地を東に遥(はる)か、筑後川の取水堰に思いを馳(は)せる。PMSが歳月をかけて完成に近づけた経緯を、万感の思いを込めて回想する。

洪水も渇水も克服

 これが現代の日本であれば、おそらく造作ない土木工事だろう。だが、機械力を駆使する圧倒的な物量動員は不可能だ。仮に造ったとしても、莫大(ばくだい)な費用を投ずる国家管理はできない。また、アフガン農村共同体は、独立の気風が強く、国家も容易に介入できぬことが多い。このような中で求められたのは、住民自身の手で維持可能な技術であった。

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 アフガニスタンは山の国で、ほとんどの国民が山あいの狭い平地で農業を営む。国土を特徴づけているのは、ヒンズークシ(最高峰7708メートル)の大山塊である。降雨面積は日本列島より広く、無数の支脈が集まり、東はインダス川支流を成す。高山の万年雪が巨大な貯水槽の役目を果たし、川沿いの沃野(よくや)を潤してきた。それが、近年の気候変動で、急激な雪解けと集中豪雨が多発し、洪水と渇水が極端な形で同居するようになった。解けた万年雪は、保水力の乏しい山肌を一気に下り、激しい洪水をおこすが、続いて川の水位が下がり、用水路への取水を困難にする。かつての肥沃な穀倉地帯は、次々に荒れ果てていた。農民たちは故郷を捨て、続々と難民化していった。30年以上、政治や戦争の話題に隠れ、ついにこの現実は国際社会に大きく伝わることがなかった。

 2010年、PMSは全長25キロのマルワリード用水路を7年がかりで拓(ひら)き、約3千ヘクタールの耕地が復活、十数万の帰農を促した。だが、古くからある近隣地域でも膨大な農地が荒廃しつつあった。その多くは、適切な取水さえ確保すれば回復し得るものであった。問題はその技術で、旧来の方法が気候変動に適さなくなっていたのだ。

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 筑後川の山田堰(ぜき)は、1790年、古賀百工という朝倉の庄屋の手になる。人口増加、飢饉(ききん)と餓死が日常であった時代、幾度も改修を重ね、ついに現在の形を造った。調べるにつけ、現地が当時の日本と同じ苦悩に喘(あえ)いでいたことを知った。あえて堰の原形をとどめてくれたのはわれわれには幸運だった。その解決法をも提供してくれたからだ。

 近代的な技術や重機もなかった時代に造られたこの取水堰には、驚くべき知恵が込められている。取水の間口を広くとり、河道全体を斜めに堰上げて水位変動を抑え、土砂流入を防ぐ。川を閉じ込めず、広い遊水地を対岸に設ける。まさにわれわれが求めるものであった。その応用はマルワリード取水堰に始まり、試行錯誤を経て、近隣の主な取水口に建設され、不可能と言われた安定灌漑(かんがい)が次々に実現した。一連の取水堰工事の成功は、悲願の「洪水と渇水に耐える取水システム」の実現であった。

 ーかくて東部アフガンと九州、220年の時と6千キロ離れた両地域は、水と命を介し、期せずして結ばれた。おそらく偶然ではあるまい。温故知新という。物言わぬ堰は、人と自然の関係についても、問いを突きつける。「近代」の破局が全世界で現れ始めた現在、私たちはどこに向かおうとしているのか。

 取水口の完成を喜ぶ人々の上空を、けたたましく外国軍ヘリが過ぎてゆく。平和な生活への願いとは、あまりに場違いなものだ。守るべきもの…それが目先の景気や軍事力でないことは確かである。

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 「アフガンの地で」はパキスタンやアフガニスタンで復興支援活動を続ける非政府組織「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表・中村哲医師(65)によるリポートです。随時掲載。

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 ▼中村哲現地活動報告会 6月2日午後1時、福岡市早良区の西南学院大チャペル。入場無料、申し込み不要。問い合わせは主催のペシャワール会=092(731)2372。


=2012/5/27付 西日本新聞朝刊=

中村先生が実践してきた事業は全て継続し、
彼が望んだ希望は全て引き継ぐ。

ペシャワール会会長 村上優氏 追悼の辞より抜粋