【アフガンの地で 中村哲医師の報告】 ※西日本新聞への寄稿記事です。

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】水満ちて村芽吹く

 2010年2月8日、ジャララバード近郊の農村で二つの「完工式」が行われた。一つはマルワリード用水路の開通、もう一つは地域を束ねる大モスク(イスラム教の礼拝堂)とマドラサ(大モスク付属学校)の完工である。地元農民、ペシャワール会医療サービス(PMS)職員、州知事ら行政代表が集い、喜びと活気がみなぎっていた。

 用水路はこの7年間で最も精力を費やした事業だ。全長25・5キロ、一日送水量40万トン、灌漑(かんがい)面積3千ヘクタール。約15万人が既に帰農した。水路が広がるごとに田園が広がり、廃村が復活する。魔法のような光景だ。一木一草生えなかった荒野は、小麦の緑と菜の花の黄色で鮮やかに覆われている。

 思えば、水回りのことなら何でもやった。暴れ川の堰(せき)、護岸、土石流対策…。加えてマドラサの建設である。これはアフガニスタンの農村共同体に必要な、ほぼすべての要素を網羅するものだ。

 大モスクと付属学校は、かつての日本の村社会での神社や鎮守の森を想像すれば分かりやすい。調和を取って生活する精神的なよりどころだ。アフガンは分かりにくい世界だが、実はひと昔前まで日本にもあったものが多い。神社に参って祈り、願を懸け、村祭りに集う。装いは異なってもアジア農村に共通した特徴だろう。日本社会の変化で分からなくなったのだ。

命の水 日本がつなぐ

 用水路・マドラサ完工式の2日後、もう一つのお祝いがあった。カマ取水堰(ぜき)の完成である。堰のあるカマ郡は州内最大の農村地帯で、7千ヘクタールの耕地と30万人の人口を擁する。2008年12月からの工事は用水路に劣らぬ意義を持つものだった。

 同郡はクナール川からの取水で潤される。しかし、20年前からの気象異変をこうむり、農業用水の取水が困難になった。人が減り、多くはパキスタン側に難民化した。

 外国援助で造られた取水口は1年と持たず、濁流に次々とついえた。原因は激しい水位の変化だ。アフガンの農業はヒンズークシ山脈の雪解け水で成り立つが、最近は夏の洪水が以前より激しく、早めに訪れ、逆に洪水の後は異常な低水位で取水が困難になる傾向が著しい。住民はカネと労働力を出して努力したがどうにもならなかった。

 解決したのが日本の伝統的土木技術だ。捨石工による河の全面堰上げを行い、越流水量を安定させ、水門部は堰板で土砂と洪水を防ぐ。ダンプカー3500台分の巨石運搬には苦労したが、二つの取水口が完成した。

 初め村民は、「取水口建設は不可能」と信じていた。だが、ひと夏を過ぎても堰はびくともせず、低水位でも十分に量が送水されるのを見て様子が変わった。第2期工事再開と同時に難民が帰還し始めた。同郡56カ村の復興は時間の問題だ。

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 それでも着工の折、住民は警戒感を隠さなかった。特に第2取水口の外国軍の地方復興チームの工事現場跡で多数の引きちぎられたコーランが発見され、大騒ぎとなった。丁寧に拾い集めてモスクで供養されたが、不信感と敵意を増大させた。

 また、工事には汚職がつきもので、やっつけ仕事で援助金を請負師と上部の役人が山分けすることが横行する。住民は「国際援助」を拒み、われわれに依頼した。だが、当方とて行政を敵にできない。良心的な役人を動かし、「灌漑(かんがい)局の要望」として施工を決めた。

 2月10日の開通式は華やかとは言えないが、心温まるものがあった。各村長が集い、現地スタイルで祝意と謝辞が述べられた。地域の長老会は重要な局面でしか動かない。一同が会して祝辞を述べるのは異例だ。国会下院と州評議会からも丁重な感謝状が贈られた。

 その中に「日本の一流の長がカマ郡におくった最良の計画」というくだりがあった。これはアフガン農村の特質と世界観をよく表している。水は彼らの生命線。地域の生命を日本という地域が助けた、と考えているのだ。「一流の長」が誰かは定かではないが、現地語を苦心して表現したのだろう。要は「日本の私心なき仕事」への素朴な謝意である。ほのぼのと温かいものを覚え、どんな称賛よりうれしかった。

 折から米軍の増派に続き、アフガン南部・ヘルマンド州では「大規模な掃討作戦」が騒々しく伝えられていた。

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 「アフガンの地で」はパキスタンやアフガニスタンで復興支援活動を続ける非政府組織「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表・中村哲医師(63)のリポートです。随時掲載します。


=2010/3/14付 西日本新聞朝刊=

中村先生が実践してきた事業は全て継続し、
彼が望んだ希望は全て引き継ぐ。

ペシャワール会会長 村上優氏 追悼の辞より抜粋